オルガンシリーズ Vol.8に出演する大平健介さんは、長くドイツと日本を行き来して演奏活動を行ってきましたが、今年、拠点を日本に移しました。完全帰国後初となるデュオコンサートを前に、3回にわたってインタビューをお届けいたします。
2歳違いの姉が、ピアノを習っていたんです。母がつきっきりで練習をみていて、僕はブーブーカーに乗って部屋を走り回りながらそれを見ていた。姉のようにかまってもらいたくて、小学1年生で僕もピアノを習い始めました。
3年生か4年生のとき、学校でミニ演奏会を開いたんです。湯山昭の曲を弾くと、友だちが喜んでくれた。弾きたい曲があって、聴いてくれる人がいて、喜んでくれる人がいる。いま思えば、それが「音楽で対話をする」初めての経験でした。高学年になり、ピアノが弾けることが特技なんだと意識しはじめてからは、テレビをみたり外で遊んだりするよりもピアノに触れる方が楽しくなりました。
進学した青山学院は、ミッションスクールなので礼拝の時間が毎日あって、主に伊藤秀行先生がオルガンを弾いておられた。前奏があって、賛美歌の伴奏、そして後奏。音楽には礼拝を先導する特別な役割があるんだなあと感じたし、もっと聴きたいと思うときもありました。
中等部2年生のときに、バッハのBWV 572(※J.S.バッハ:幻想曲ト長調BWV572)を聴いたんです。最初に水玉がパラパラパラ、と落ちてきて、鳩がバーッと飛び立って。パイプが大きく高く聳え立つオルガンの存在感にも圧倒されて、「これは啓示だ! これこそ僕の学びたい楽器だ!」と震えました。
中等部入学と同時に、いろんな楽器を知りたいと思い吹奏楽部に入部していました。担当はホルン。先輩のパートを勝手に吹いたりして、生意気な奴だったと思います(笑)。部活はひとつしか入れない決まりがありましたが、ラッキーなことに、オルガンは「同好会」だった。顧問は伊藤先生です。合宿で本物のパイプオルガンに触れたこともあり、本気でオルガニストになりたい、音大のオルガン科に進みたいと考えるようになりました。
伊藤先生は大反対。かっこいいとか、憧れだけでやれるような甘い道ではないと。僕は学校の図書館や音楽室に入り浸り、家の近くの教会に通ってオルガンを弾かせてもらい、先生に「まだ反対ですか」と尋ね続けました。
高等部1年の春、それまで通っていたピアノの教室を辞め、成城ソルフェージュ研究会に通い始めました。音楽を志す仲間と出会えて、僕にとっては天国のような場所だった。
音楽の先生がオペラや宗教作品が好きな方で、授業でヨハネ受難曲を聴いたときは、ザワッと鳥肌が立ったことを覚えています。図書館でオペラのDVDを観たり、都内で開かれるオルガンやオーケストラの演奏会に足を運んだり、暮れなずむ代々木公園のベンチに座り、録音して持ち歩いていたオルガン音楽をずっと聴いていたり。マニアのように、音楽の世界にどんどんハマっていきました。
2年半くらい僕を引き止めていた伊藤先生が、ようやくOKを出してくれた。音大受験の準備を始めるタイムリミットがきていたからだと思います。
なによりオルガン科が地味だった(笑)。同級生も先輩も後輩も女の子だらけで居場所づくりに時間がかかったこともあり、2年生くらいからはオルガン科ではない場所が居場所でした。僕の練習コマが他の生徒の取り合いになるくらい、科内では練習しないことで有名でした。
それでなにをしていたかというと、学内外での活動にのめり込んでいました。毎週金曜日のバッハ・カンタータ・クラブの活動に加えて、グループを立ち上げて在学中に300公演ほど演奏会を開いたり、バロックダンス同好会を作って合宿をしたり。伴奏、合唱、指揮はもちろん、新作初演に演奏会企画、邦楽や美術とのコラボレーション、ロックバンドにフットサル部と、オルガン以外の音楽の世界が一気に広がり、楽しくてたまりませんでした。
(2021年3月@パルナソスホール 取材・文:鷹居美紀)
写真1枚目:パルナソスホールにてインタビュー。
写真2枚目:ブーブーカーで遊ぶ幼少期。
写真3枚目:ミニ演奏会を開くなど、ピアノが楽しくなってきたころ。
写真4枚目:藝大合格の報告に、恩師伊藤先生のもとへ。
次回「ドイツでの充実した日々」へつづく・・・